佐々木 定綱。 家系図 宇多源氏5 / 佐々木定綱~

佐々木盛綱

同4年許されてを返還され,近江,,3国のを与えられて,再び頼朝に仕えた。 この乱で兄広綱が京方として処刑されたため,嫡流を継ぎ近江国守護となる。 さらに、一族からは朽木・加治・馬淵・隠岐・山中・塩谷・野木・尼子・黒田・山崎の諸氏が分出し、おおいに繁衍した。 4年()7月10日、が初めてを着る儀式に加わる。 治承4年(1180)8月17日、伊豆国の 目代(源氏の見張り役とされる山木判官代)である 平(山木)兼隆を 最初の攻撃目標として山木館を襲い、兼隆を討ちとり 源氏再興の狼煙を挙げた。

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佐々木高綱の立志伝

また、わが家系の系図(江戸初期編纂)では、季定(源次太夫)が「 常恵冠者」であることが記載されている。 すなわち、この時代、近江佐々木庄では左大臣・雅信の4男・ 扶義(参議、大蔵卿)流・武家系の 佐々木氏と大彦命後裔の土着の豪族・ 沙沙貴山君との勢力争いによる錯綜があり、また近江の上級領主権の領家職である左大臣・雅信の長男・ 時中(公卿、致仕大納言)流・ 公家宇多源氏(綾小路家、分家: 佐々木野氏)の存在もあり、佐々木氏が現地支配を固めるために何らかの姻戚操作(あるいは接ぎ木)をした形跡などを反映しているのかもしれない。 この間たびたび京都への使者となる。 9月から11月、頼朝に従い上洛し、への参上やへの参拝などに随行する。 子の定重はとなった。

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佐々木盛綱

嘉禎2 1236 年遁世を志して評定衆を辞し上洛した。 元年()4月3日、磯部郷に在り、・の反乱の制圧を命じられる。

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佐々木盛綱

出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について. 定綱は度重なる軍功により、本領・佐々木荘の 地頭に補任され、ついで 近江の守護(総追捕使)となる。 父に従い洛中警衛に当たり,元久2 1205 年には平賀朝雅追討に活躍。

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佐々木定綱

1200年(正治2)幕命を受け近江柏原 おうみかしわばら 荘(滋賀県米原 まいばら 市)の住人柏原為永 ためなが を討伐、1205年(元久2)には幕府軍に従い京都守護平賀朝雅 ひらがともまさ を攻め、左近将監 さこんのしょうげん に任ぜられた。 建久6年()3月には供養のため上洛し南都()に赴いた頼朝に随行し、4月15日にはへの参拝もともにする。 定綱 さだつな の四子。 建久2年()10月1日、とより15頭を頼朝に贈る。 外部リンク [ ]• いまも、佐々木氏は近江の狭狭貴神社を氏神として敬い固い絆を有しているという。 一旦、安房国へ逃れた頼朝は10月20日の 富士川の戦いで平氏を破る。

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佐々木定綱

信実はその場を逃れ、盛綱はその後を追ったが、翌日に頼朝より信実を捕らえよと命じられる。 また、為俊の改名後は季定ではなく 家定として 村上源氏の養子に入ったとする説あり。 その後、義経に従って平氏追討に四国に赴き、戦功によって長門 ながと (山口県)の守護に補せられ、左衛門尉 さえもんのじょう に任ぜられたが、95年(建久6)家を子重綱 しげつな に譲って高野山 こうやさん に入り、西入 さいにゅう と号した。

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先祖の足跡を訪ねて -鎌倉幕府創設を支えた佐々木秀義とその息子たち-|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

鎌倉の西山に葬られた。

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佐佐木定綱

一方、庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、 北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。 挙兵後に行われた初の論功行賞では、父・秀義は平家討伐の挙兵前後における助勢など、種々の功により、石橋山の戦いで 平氏方の 大庭景親軍に義理で参陣したことも許され、旧領の佐々木庄を安堵され、本領・佐々木荘へと戻る。 すると、佐々木高綱は引き返して防ぎ戦い、源頼朝を逃がしたので、源頼朝は九死に一生を得た。 佐々木氏系の武家の家紋を見ると、加治盛綱の流れは「三つ星」、隠岐義清の流れは「花輪違い」、四つ目結は嫡流である定綱の流れが用いた。

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佐々木高綱とは

四男氏信は、大原庄、高島郡田中郷を除く江北の愛智・犬上・坂田・伊香・浅井・高島の六郡を相続し、京都の館が京極高辻にあったことから京極氏と呼ばれるようになった。 山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)) 関連項目 [ ]• 保元元年 1156年 に 崇徳上皇と 後白河天皇が争った 保元の乱では、父・ 秀義は天皇方の 源義朝に与して戦うことになり、勝利するが、義朝に与し義朝の嫡子である 源義平(鎌倉悪源太、源頼朝・義経らの異母兄)と共に 平氏と戦った平治元年 1159年 の 平治の乱では、義朝方は敗れる。 さらに、石橋山の戦いで源頼朝が敗走して杉山に逃れたとき、敵軍・大庭景親の軍勢が迫って、源頼朝は絶対絶命の窮地に陥った。 治承4年 1180年 、伊豆に配流されていた従兄弟の 源頼朝が 以仁(もちひと)王の命を受けて 平家討伐の兵を挙げると、 定綱は弟の経高、盛綱、高綱と共に頼朝を助勢した。 その後、信兼は行方をくらますが、事態を重く見た 頼朝は信兼の捜索を義経に命じる。

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